2009/06/ 4 (木)

2009/06/ 4 (木)

知恵組のシンボル宣言

曇り 気温21度 湿度71% AM7:00 M8189
090604.JPG
おはようございます。今日は見えないだろうなと思って、ベランダに出たら、
見えましたよ。うっすら、水墨画のような富士山。 いいですね~。。


さて
 本日2009年6月4日(木)

 「つながり、広がり、見つかる」のキャッチコピーのコミュニティープラットフォーム
 知恵組.JP について、覚悟の宣言をします。

   私が、知恵組のシンボルをやります。

 
今日から、私の日々の行動、働き方だけでなく、生き方まですべてがチェンジします。


1.知恵組とは何か。
2.知恵組で何を成し遂げたいのか。
3.なぜ私、永谷でないといけないのか
4.ワク夢

で説明しましょう。めちゃくちゃ長文です。気合を入れてお読み下さい。
 

1.知恵組とは何か
   コミュニティーを運営するためのプラットフォームです。
   会員同士のつながりだけでなく、コミュニティーを超えたネットワークも作れます。
   small worldの具現化とも言えます。
 

対象のコミュニティーは、学習コミュニティー、地域コミュニティー、
  社会協働コミュニティー自己啓発コミュニティーなど、
  社会問題を解決するためだったり、学びを得るためだったり多様ですが、
  ”個を尊重し、参加者のつながりを重視している”、純粋で熱意のあるミュニティーのみ
  参加頂きたいと思います。

 
  私が実際、会って、話して、”これは!”と思ったオーナーさんを紹介していきます。 
  知恵組のコミュニティーの信頼は、私の”目利き”で、保障します。


2.知恵組で何を成し遂げたいのか。

 「つながり、広がり、見つかる」のキャッチコピーのもと、
 日本において、初めての記名式の信頼のネットワークが構築できるか、
 への挑戦である。
 
 個が大切にし、自分らしく、生きていく過程において
 多様な価値に触れ、触発されながら、運命的な出会いを
 することは、非常に重要である。
 
 殻に閉じた世界から、開いた新しい世界への旅立ちである。
 
 人はつながることによって、自分の価値を見出していく。
 ただ”仲良し”でつながるだけなく、自己を開示することに
 よって、他者の価値観を受け入れ、そして新しい知恵を生み出し
 ていく。
 
 情報社会に生きていく、子供たちに”いい見本”を見せなければ
 ならない。
 ”子供は大人の説教から学ぶのではなく、大人が学んでいる姿から学ぶ
  のである”(藤原和博談)
 
 
 つながりたい人は、人々の実践を通した「知恵」を分かち合おう
 とする。
 壁にぶつかっている人に対して、受け入れ、扉を開けようとする。

 
 
 私は自分がすべて正しいなんてちょっとも思わない。
 人に感謝をしながら生きて行きたいと願っている。
 でも、なんともならない閉塞感を感じるときがあり、
 悶々とする日々を送ることもある。
 
 
 ただ日々勇気をもらうことに出くわす。
 知り合った方から、勇気を持って行動した上に得た”知恵”を聞いたときだ。
 自分の深い問題意識と化学反応を起こし、「ハッ」っとする。
 気づきの瞬間だ。
 その瞬間、まちがいなく自分は成長している。

 
 すべて、”人との出会い”によって、今の自分はある。
 一つ一つの出会いによって、人生のステージはアップしてきた。
 人間としてのステージもアップしてきた。

 
 ひとつだけ信じること。
 それは
人と人の信頼のネットワークこそ、次なる時代をつくるエネルギーとなる
ということだ。
 

 『明日を生み出す”出会い”のプラットフォーム』を、知恵組で実現していきたい。

  一人ひとりが輝いて生きていくために。。

 
3.なぜ私、永谷でないといけないのか

 私の使命なんでしょう。歴史[ストーリー]が物語っています。

  ■発明家への道
  僕は子供のころ、近所の工場に遊びに行くのが好きだった。
   缶空をたくさんつなげて”池の中のフナのぞき器”をつくったり、
   ラジコンのモータを自分で分解して改造して速くしたり
   トランジスタラジオを無線の本をみて自作してみたり。。
  (でオームの法則を中学で習う前の小学校5年でなぜか理解していた)

   県下でも有数な進学校に進んだ僕は、数学と物理では
   いつもTOPクラス。3年の教科書は2年で追え、ひたすら東大・京大
   の赤本を解いていた。
   有名国立大学に行く夢を持った18歳の少年は、将来物理学研究者に
   なることを疑ってもいなかった。
   1983年(昭和58年)1月 地元の大学で行われた共通一次試験の数学の
   ときまでは。
   200点満点を取ることを前提に、受けた試験。ところが。。
   ルート2の二乗できっかかった。
   僕はひたすら、1.41421356・・・×1.41421356・・・
   を掛けていたのだ。
   友人と、何桁まで覚えられるかと競争していたので、ルート2
   を掛けていたのだ。
   当然、マークシートには答えはない。
   その瞬間、頭が真っ白。あとは覚えていない。。
   取った点は、108点。(煩悩の数字だ)
   そのとき、18歳の少年の科学者になる夢は絶たれた。(と思っていた)
   浪人をするつもりがなかった僕は、私立大学に入った。
   勉強よりも、サッカーやマージャン、バンド活動に精を出し
   気づいたら、留年していた。
    (試験の日を知らないくらい学校にいかなかった)
   
   時は流れて、40歳の僕は、特許庁から届いた一通の封筒を開けていた。
    ”発明の名称:行動改善システム”
   「おっとれたじゃん。やっとだな。会社つくって7個目の申請だもんな
    よかったよかった。。ん!?」
    ”発明者:永谷研一”
   「はつめいしゃ ながやけんいち。。」
   「俺が発明者。。えっ」   
    その”発明者”という文字を見た瞬間、体中がしびれ、足がガタガタ    
    震え、とめどなく涙が流れた。。。自分でも良く分からない。
    走馬灯のように、子供のころが思い浮かんだ。
   ノッポさんが好きだった幼稚園
   お風呂の水がいっぱいになるとブザーがなるマシンを作った小学生
  折れたラケットを、ボンドやセメダインを混ぜて強力接着させた中学生    
  ビー玉を逆回転させると戻ってくる公式がわかったとき興奮した高校生
  ETという映画をみたとき、”空とぶ自転車”ってすげーと思った大学生

   「俺のなりたかったのは”発明家”だったんだ。夢かなってんじゃん」
  思い起こせば、サラリーマンになっても、いつも仕事の仕方を工夫して
  きた。上司の指示よりも、もっといい方法はないかと模索した。
  先輩から引き継いだ一週間かかっていた業務を一日にしてしまったこと
  をだまっていて、しばらく、会社でいろんな研究して遊んだものだ。
  ネットマンを設立したあとも、すべて、世にない新しい商品を出荷
  していきた。
  「あー、おれは、”ありたい姿”どおり、生きてきてたんだな。
    ずっと発明家に憧れて。。。」
   
   以降僕は、名刺に”発明家”と書くようになった。
   「こんにちは、発明家の永谷です。よろしくお願いします。」


 ■ネットワーカーとの出会い。
  28歳の僕は、コンパックという会社が出したディスクトップパソコン
  を買った。28800bpsという低速モデムがついていた。
  まずは、パソコン通信というものを始めた。
  ビジネスフォーラムなるものがあり、日夜、ビジネスアイデアで
  議論がされていた。知らない人との交流なんてする勇気もなく
  ひたすらROM(読んでいるだけ)で喜んでいた。
  数ヶ月たって、生まれて始めて、インターネットというものみた。
  衝撃が走った。なんだこれは。すごいぞ。
  そこに、技術者が自分の作品を自由に載せているサイトを見つけた。
  http://gamelan.com
  (当時僕はずーっと、ゲームランだと思っていた。あとからガメラン
   であることを知った)
  そこには、新しいJavaという技術で、世界中の技術者が自分が作った
  ソフトウェアを乗せていた。みな自分のホームページにリンクして
  いて、メールアドレスを公開していた。
  僕は勇気を振り絞って、メールを書いた。
   「I am japanese. Your site is cool! ・・・」
  これはすごいってソフトウェアを見つけては、毎日10人程度に
  メールを送っていた。
  ほとんどが無視されるのであるが、10人に2人はレスがかえって
  きた。
  1人は、「Hey!Jap F○○K You!」
1人は、「Thanyou. I am India.・・・・」
好意的な人とは、すぐ友人になった。Javaの技術の話だけでなく
  家族の話、日本食の話、引いては彼女の話などをメールで行った。
  いわゆるメルトモだ。10人くらいはいただろうか。

  28歳当時、沼津から東京まで通勤していた僕は、帰宅が深夜12:00。
  それでも毎日メールが来るのが楽しくて、朝4:00くらいまで、
  パソコンをカタカタやっていたのだ。
  おかげで、寝不足はひどかった。でもとっても毎日がワクワク
  楽しかった。
  
  そんなとき、コンペの仕事があった。担当していたのは大手の
  印刷会社だったが、そのとある事業部で、営業支援システムを
  提案するとのことだった。
  僕は、インターネットシステムを提案した。売りは
  「クライアントパソコンにソフト投資はいりません。ブラウザ
   があるだけで、営業情報のグラフ、表など表示できます」

  敵は、サーバークライアントを提案した。
  もうひとつの敵は汎用機のシステムを提案してきた。
  
  完全勝利でコンペは勝った。うちの会社にシステム開発を全面的に
  任せるとのことだった。
  
  僕は上司に相談した。「やっていいですか?」
  彼は言った。「どうせやるんだろ?ぜったいばれるなよ」

  当時、会社では、ソフトウェア開発は子会社や関連会社にしか
  発注してはならなかった。僕の勤めていた会社は大手SI会社。
  当たり前である。

  でも当時、Javaという技術は日本に上陸していなかった。
  技術者が日本にいないのは当然である。

  僕は、ボーナスをすべてつぎ込み、ドルを送金した。
 
  そう。メルトモと仕事をやったのだ。
  何人かに声をかけると、1人のインドネシア人の人が
  「OK!」といってくれた。

  僕が上流の設計とデータベースとのインターフェースの開発
  を行い、クライアント側のグラフや表の表示システムは彼ら
  がプログラミングした。
  彼らも半信半疑。お金を振り込むまで、ソースコードは
  渡してこなかった。でも何回かに分けて、送金し、少しずつ
  信頼を獲得して言った。
  3ヵ月後。すばらしいシステムが納品された。ユーザーは満足
  し、賛辞してくれた。

  そのとき僕は思った。
   「あれ?技術者が足りないってうそだな」
   (当時は100万人技術者が足りなくなるといわれていた)
   「技術者が足りないんではなくて、働き方のモデルや
    ルールが足りないだ。人は余っている。だって
    どこかで働いている人だって、空いた時間1時間や2時間
    はあるでしょ。その時間をうまくマネジメントしたら
    高い技術でも安価に開発できるじゃないか。」


   当時、古い技術者が会社の中で肩身の狭い思いをしていた。
   「なぜ、この人たちは隅っこに追いやられるんだろう。
    あっそうか、この人はこの会社のプロジェクトだけに
    参加しているから、仕事が少ないんだ。
   世の中で、もっとプロジェクトがオープンになっていて
   彼を必要としている10個のプロジェクトに参加して10万円
   づつもらえば、この人だって月収100万円になるじゃないか」


   あっそうか。ネットワーカーを組織してプロジェクト型で
   仕事を回せば、みんな幸せになるんだな。

   Network-erManagementCompany(Netman)の構想ができあがった
   瞬間だった。

   会社を作った後、そのインドネシア人のNetworkerと会う
   ことができたのだ。
   僕と仕事をやった当時、彼は、インドネシアの全高校の大会で
   優秀賞をとり国費でアメリカに留学したばかりだった。
   なんとその後、日本の大学院に編入が決まり、東京の吉祥寺
   で会うことになったのだ。
   メルトモになってから5年、初めて会った。どきどきだった。
   「彼に会ったら、何を食べてもらおう」と考えていたが
    結局、適当なレストランに入って、いろんな話をした。
    お酒はなくとも(彼は飲めなかった)、すぐに打ち解け
   楽しい時間を過ごした。
   
   その後、彼の彼女と僕の彼女と一緒に食事をしたり、
   いい関係を続けた。
   当時学生だった彼は、カードが作れなくて、僕が
   保証人になったりもした。
   今彼は、外資系半導体の企業で次世代チップの開発をしている。

   まちがいなく、彼は僕の運命を決めた一人である。
   今でも、感謝している。

   なぜなら今でも僕は、ネットワークのすばらしさを
   語り続けているのだから。。

 
 ■自分の視野ですべてが決まる。 
  ネットマン社を作ってすぐは、アジアからの留学生が多く
  バイトをしていた。
  留学生を雇う企業はほとんどなかった当時、
  ネットマンは留学生たちに有名な会社だったようだ。
  実際、ベトナム、インドネシア、ミャンマーなどの
  青年たちが、サーバーを構築したりソフトウェアを
  作ったりしていた。

  そんな一人の彼はいつも明るい笑顔が印象的な青年だった。。

  サーバー構築の仕事をしていた彼は、とある土曜日
  ぼくにパソコンを開いて、とあるサイトを見せた。
  彼「永谷さん。これを見てください。これは
   ”ガイジンウェブ”といって日本に来た留学生が
   交流するサイトなんです。
   日本に着たばかりの外人は、食事の場所もわからない
   そんな情報交換をするんです。こういうのが流行るんです。」
  僕「へー。すごいね。何人くらいいるの?」
  彼「50人くらいですね。」
  僕「へー。その人たちプログラミングできるかな?」
  彼「できると思います」
  僕「そうなの!じゃーみんな僕に紹介してよ。じゃっね」
  彼「ああ。はぃ。。」
 
  こんな会話があったあと、彼はとある企業に移って行きました。
  数年後、彼と会うのは、上場記念を放映するテレビででした。
  そうやって僕はmを作りそびれた男として(一部で)有名に
  なりました。

  僕には、彼が作ったSNSサイトの”人”が見えていたんです。
  コミュニティーがソフトウェアで作れることは理解できましたが、
  興味がなかったんでしょうね。
  なにせ、ソフトウェアをNetworkerモデルで開発して、
  IT業界に価格破壊を起こすことに一生懸命でしたから。。。

  でも、その”人”に、着目したことが、僕らしくていいんです。
  次の”教育の世界”につながることになるんですから。。


 ■ケータイの利活用の一人者、協調自立学習との出会い
 
  2001年8月 日本(世界)で始めて、ケータイを活用した学習支援
  システム c-Learningを出荷した。
  当時は、大学の事情なんて全く知らず、ただ、”こんなのあったら
  便利だろうな”と思って、企画して、3ヶ月で創り上げたものだった。
  
  うまく販売代理店が決まり、佛教大学の西之園先生が使ってくれた。
  先生は、”協調自立学習”をずっと実証研究されており、ケータイの
  可能性に、着目されていた。

  最初は、先生の言うとおり、ソフトウェアを改善し続けた。
  「なんで、こんな機能が必要なんだろう」
  と思ったが、一生懸命、ついて行った。

  ”教えない”という教育手法が私にとっては斬新だった。
  「学生は勝手に勉強しよるで。。」と言う先生の笑顔が好きだった。

   そんな中、NHK京都で大きく取り上げられた。50校からc-Learning
の問い合わせがあり、”これは売れるぞ”と思ったものだ。

  
   ところが。。。。


   2年2人営業マンを張ってやったものの売れたのは1本。
   それが2002年ごろの現実だった。


   佛教大の3年契約も切れ、先生は、NPOを立ち上げられた。
     「学習開発研究所」 私は初代から研究員となり、
    どうやったら、協調自立学習が成り立つのか日夜考えた
   その1年後、私もNPOを立ち上げた
     「人材育成マネジメント研究会」
    副代表となり、IDや効果測定について一生懸命学んだ。

   NPOには、積極的に、無償でc-Learningをご利用頂いた。

   その流れで、20人くらいの先生方が、無償でc-Learningを
   使ってくれていた。

   先生方から来る要望に一生懸命答えて行った。
   
   よく学会等の挨拶で私が話す
    「やるんじゃなかったのc-Learnigの永谷です。
     累積赤字が5000万円を超えました。(笑)」
    
   企業で儲けた金を、c-Learningにつぎ込んだ。
   
   とある方が言った。
    「永谷さんって、気持ちで仕事やってるよね。」
   私は答えた。
    「だって、学生たちが、周りに影響を受けながら
     自分から歩き出す姿ってすばらしいじゃないですか。」

   そうなんだ。
    協調自立学習は、人を大切にすればこその学習法なんだ。
    Networkerの概念とも通じる。
    だから、つらくても、一生懸命やってたんだな。

   時は過ぎ、2007年 再度、c-Learningの有償化に踏み切った。
   今まで使っていた先生方、全員が継続契約をしてくれた。
   うれしかった。
   売り上げがあれば、安定的にソフトウェアの改善に投資
   できる。
   もっと多くの学生たちに喜んでもらえるだろう。
 
   時を同じくして、ケータイを活用したいという先生が
   急増した。
   理由は、学生のリテラシーの半端ないアップ。
   2007年の大学2年生の高校の入学プレゼントはケイタイだった。
   QRコードを配るだけで、説明しなくてもどんどん自己開示して
   意見を述べる次代が来た。
   ケイタイが単なるツールから、教材の1つにステージアップした瞬間だ。

   2009年大阪府立柴島高校でのチャレンジに呼ばれた。TBS-Video
   ケータイなら永谷さんでしょ。と言われたのが、うれしかった。
   8年の苦労が報われた気がした。
  一生懸命、子供たちのことを思って仕事をした。

   
4.ワク夢
 ワクワク楽しい夢の実現のことです。

 知恵組の売り上げの3%を ”ありえねー。でも見てみたい!”
 ってものの開発に寄付します。

 条件は、以下です。
 ”いろんなネットワークでの出会いがなければ、実現し得ないこと”
  かつ”大企業がやりそうもないもの”
  かつ”一般市民として面白い!もの”
  かつ”進捗が確認でき、楽しめるもの”

2009年度候補
 ”空とぶ自転車”の開発プロジェクト1%
 ”温度差発電”の開発プロジェクト1%
 ”23区娘”の開発プロジェクト1%


以上

さあ始ります。今日からオーナー開拓です。
では、Let's Enjoy !